「失敗を恐れないチャレンジ精神」で200年生き残る企業へ!独自の刺繍技術で新たな価値を生み出し続ける老舗工房・笠盛が、刺繍の祭典「パークフェスティバル」を開催
明治10年、日本を代表する織物の産地・群馬県桐生市で創業、和装帯の織物業を営んできた「笠盛」は、時代の変化に伴い、昭和37年には刺繍業へと転身しました。その後、水溶性の不織布に刺繍を施す独自のレース技術を開発、その技術を応用した刺繍糸で作るアクセサリーブランド000(トリプル・オゥ)を立ち上げています。200年、300年と続く長寿企業となるためには「トライアンドエラー、失敗を恐れずに突き進むチャレンジ精神が大事」と語る第4代目代表取締役会長の笠原康利さんに、笠盛のこれまでの軌跡や、ものづくりが身近に感じられるパークフェスティバルを開催する理由、この先目指す未来についてお話を伺いました。

株式会社笠盛 4代目代表取締役会長 笠原 康利さん
刺繍技術にクローズアップ、刺繍を見て・触れて・楽しめる笠盛パークフェスティバル
ー 「笠盛パークフェスティバル」とはどんな催しですか?
「笠盛パークフェスティバル」は「刺繍で伝える、刺繍でつながる」をテーマに、笠盛のものづくりを見て・体験・購入できる刺しゅうの祭典です。2021年に弊社が桐生市新宿にて新工場「笠盛パーク」を設立した年から開催しており、2024年で4回目となります。刺繍が好きな方はもちろん、これまで刺繍と接点がなかった地域住民の方も気軽に参加でき、ワクワクしながらもの作りの楽しさを知ってもらえるような場を目指しています。笠盛は創業147年の長い歴史を持つ企業ですが、ここまで来れたのは地域のお客様があってこそです。もの作りを通じてお客様に恩返しをするとともに、この工場が地域の交流の場所になればという思いで開催しています。
ー パークフェスティバルではどんなことができますか。
笠盛の刺繍技術が間近で体感できる「笠盛ファクトリーツアー」に参加できます。
ツアーでは、希望によりミシンの作動体験ができるほか、横一列に連なる10個のミシン(10個で1台とカウント)が同時に動く様子を見ることができます。プログラミングされている図案にあわせて規則正しくミシンが動く姿は、見ているだけで楽しいですよ。

多様な刺繍を生み出すミシン
ミシンは、家庭用と同じく上糸と下糸をセットする構造となっており、一度に12色分の刺繍糸がセット可能です。たくさんの種類の糸を使っているからこそ出せる絶妙な色合いの調和も楽しめますし、プログラミングされた複雑な模様は見応えがあります。ミシンにかけた作品をお湯に浸すと、水溶性の不織布が溶けて刺繍だけが残ります。実際にお湯に浸すところをお見せすると、不織布が溶けるスピードが想像以上に早いからか、毎回お客様から驚きの声が上がりますね。

イベントでは家でものづくりを楽しめるアートパネルキットも販売
さらに、2024年にはステンドグラス風のアートフレームが制作できるワークショップも開催しました。サステナビリティの観点から、アートフレームの材料は工場で刺繍アクセサリーを生産する過程で出てくる廃材を利用しています。「材料を好きな形に切り貼りする」という簡単な工程で制作できるので、小さなお子さまにも楽しんでいただけたようです。
ー 参加者された方の様子を教えてください。
40〜50代の女性の方が多いですが、ご家族連れでいらっしゃる方もいます。常連の方がご友人を連れてきて下さることもありますね。初めて参加される方の中には「これをきっかけに刺繍に興味を持つようになった」という方もいらっしゃって、嬉しい限りです。

パークフェスティバル限定のアイテムも並ぶマルシェ
マルシェでは、ここでしか買うことのできないトートバッグや、むら染めの刺しゅう糸で作った「マーブルアクセサリー」も並びます。お得なアウトレット商品もあり、普段から笠盛の製品を愛用いただいている方も喜んで下さっているようです。
ー 今後、笠盛パークをどのように発展させていきたいですか。
現在は、パークフェスティバルでの工場見学は完全予約制という形をとっていますが、本当はもっと大々的にやりたいんですよ。刺繍を身近に感じていただくためにも、将来的には「見せる工場」を目指し、お客様がいつ来ても作品を作る工程が気軽に見られるような施設にしたいですね。そうしたオープンな工場にした方が、働く従業員にとってもモチベーションになるかもしれませんね。
困難を乗り越えて歩み続けた軌跡。変革に挑みながら未来へ
ー 「笠盛」は和装帯の織物メーカーとして創業されましたが、その後刺繡業に転身した背景を教えてください。
「西の西陣、東の桐生」と言われるほど、桐生市は織物産業で有名な場所です。笠盛は明治10年に誕生しましたが、昭和20年代までは機屋として生計を立てていました。特に昭和20年代中頃は、ガチャンと機を織れば万の金が儲かる、「ガチャマン景気」と言われるくらい大変景気が良かったんです。
ところが、昭和20年代後半から30年代になると「なべ底不況」となり、急激に景気が冷え込んでしまいました。当時私は大学生で、卒業後2〜3年京都で修行したのちに会社に入る予定だったのですが、その頃には売上が低迷して旗屋事業を停止してしまったんです。なので急遽日立の子会社に入社し、エンジニアとして働いていた時期もあったんですよ。一方で笠盛では「時代に合わせた仕事にシフトしよう」という動きがあり、編み物や鉄鋼などさまざまな新事業が検討されていました。そのうちの選択肢の一つに刺繍業があったんです。多様な生地や糸が必要な織物と比較すると、刺繍は仕入れが少なく、万が一返品になっても低リスクで済みます。機屋時代のご縁で和装刺繍の仕事をいただいたり、靴下へワンポイントの刺繍をする仕事を受注できたりしたことも、刺繍業への後押しとなったようです。
ー 新事業に移行する際、刺繡業をどのように広めていったのでしょうか。
本格的に事業を始めてからしばらくはおふくろが中心となり、従業員と一緒に営業をしたと聞いています。おふくろは泣き言は絶対に言わなかったし、苦労を顔に出さない人でした。そんな人柄に惹かれる人も多く、口コミで徐々に広まっていったみたいです。その後、私が25歳のときに笠盛へ入社。そのわずか2年後におふくろが会社から退いてしまいました。当時の私は刺繍のことがまったく分からない素人同然だったので、とても苦労しましたね。

笠盛の歴史と変革への挑戦を語る (提供元:笠盛HP)
ー 後継として入社された後の苦労も教えてください。
入社後は未経験ながら営業活動に勤しみました。「いりません」と断られることがほとんどでしたが、それが当たり前。回数を重ねる中で、これこそがセールスの第一歩なんだと分かるようになってきました。しかし、それでも一生懸命活動していると熱意が相手に伝わるのか、発注してもらったり、仕事を紹介してもらったりと、自ずと仕事が増えていきました。
ー 営業時代の印象に残っているエピソードはありますか。
クレームをいただいたときのことはよく覚えています。私は、クレームのときこそ最速で対応することを信条にしているのですが、始発でクライアント先に向かい会社の前で待機していたら、傘もないのに雨が降ってきて、まさに「泣きっ面にハチ」ということがありました。しかし、その後出勤してきた取引先の社長は、私を見て𠮟りつけることもなく「しっかりやれよ」と一言口にしただけ。そのとき、一生懸命さや誠意は、相手に伝わるんだなと思いましたね。
常識を覆すオリジナルアクセサリーブランド「000(トリプルオゥ)」誕生のストーリー
ー 笠盛のオリジナルアクセサリーブランド「000(トリプルオゥ)」はどのようにして誕生したのですか。
笠盛は、インドネシアに法人を立ち上げたことがあります。2005年に工場を閉め撤退しているのですが、そのときに「東京に事務所を設立する」「東京で個展を開く」「海外のショーに出展する」という3つの目標を立てました。海外拠点はなくなりましたが、世界に「こんな面白い刺繍が日本にある」と発信したい、という思いは諦めたくなかったんです。
そして2007年、パリで開催される世界最大のテキスタイルの展示会「モーダモン(modamont)」へ出展、出品した刺繍の付け襟が VIP Productsを受賞しました。ほかにもいくつかの作品を出品したのですが、そのうちの一つにレース状のネックレスがあり、それが今の「000」(トリプルオゥ)」のコンセプトの源流となっています。2010年にアクセサリーブランド「000」(トリプルオゥ)」を立ち上げ。自由な発想を持って、新しい価値を「ゼロ」から生みだそうという想いのもと名付けました。

空気を纏うような軽さを実現するアクセサリー
ー 刺繡アクセサリー「000」の魅力は何ですか?
最大の魅力はなんといってもその軽さです。着けていることを忘れてしまうほどで、長時間身につけていてもストレスフリー。負担を感じることがありませんし、金属アレルギーを持っている人にも最適です。またお手入れも簡単で、中性洗剤で洗えます。

ネックレスの長さや球体のサイズによって表情が変わる「スフィア」
ー 「000」のデザイン面での特徴はありますか?
「000」を象徴するデザインとして、「スフィア」と名付けた球体のアクセサリーがあります。業界の常識として「刺繍で球体を作ることは到底出来ない」と思われていましたが、0.1mm単位のプログラミングと糸調子の調整して、立体的なデザインを実現しました。「毎日つけられるようなアクセサリーはないか」とお客様から尋ねられたのがきっかけで生まれたアクセサリーで、自己主張が少なく服に馴染みます。少しでも針が下りる位置が変わると形が崩れてしまうため、作業時は非常に繊細な感覚が求められる、まさに笠盛の刺繍技術を凝縮させたアクセサリーです。製造特許ではありますが、特許も取っています。
ー 「000」ではどんな素材の刺繍糸を使っていますか。
天然素材を原料としているキュプラを使用しています。肌への刺激が少ないことに加えて、シルクに近い艶感ががあります。また、群馬県で開発された「ぐんまシルク」の一つで、希少性の高い「ぐんま200」という生糸で作られた「スフィア・シルク」は、白度が強く真珠とはまた違う光沢感があります。
お客様に喜んでいただくため、新しい可能性を模索しながら作られた作品ですので、ぜひ一度手に取って品質を確かめてみてほしいですね。
淘汰の時代を生き抜き、次の100年を目指す
ー 会社を存続させるため様々なことに挑戦してきた笠盛さんですが、改めて人生を振りかえっていかがですか。
楽しかったですよ。失敗は多かったですが、落ち込むことはありませんでした。「失敗の数だけ成功に近づく」というのが、私の理念です。例えば、インドネシアの事業も途中で行き詰まりましたが、その経験を他に活かすことができました。人は失敗してはじめて間違いに気づき、知識を身につけます。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という有名な言葉もありますが、やはり経験しないと分からないことも多いのではないかと思いますね。なので社員にも「失敗を恐れるな」といつも伝えています。一勝九敗でいいんです。成功なんてなかなかできるものではないから、どんどん失敗していい。これからも「小さくまとまる必要なんてない」と伝えていきたいですし、みんながチャレンジできるような会社でありたいですね。
ー 今後の目標を教えてください。
お客様第一主義というのは変わりません。お客様が満足して、楽しんで、その対価をお支払いいただく。その状況を作り出すことが肝要です。弊社は「200年企業を目指す」という目標を掲げていますが、さらに先、例えば300年、400年後の未来にも継承していく企業を目指すとしたら、時代に合わせてもっと会社を変革していく必要がありますよね。失敗を恐れず、いつでもチャレンジ精神を持ち合わせていたいです。
ー 最後に、今後の刺繡産業の可能性についてどのようにお考えですか。
刺繍が施せるのは、布製品や洋服だけではありません。例えば、高級料亭の日本間のふすま全体に刺繍を入れたり、壁紙や網戸に刺繍したりもできます。どんなものに刺繍を入れて、どういう見せ方をすれば関心を示してもらえるのか。アイデアを考えると面白いですよね。その中で新しい刺繍のニーズを開拓できる可能性は十分にありますし、私たちもそれに挑戦していきたいですね。
(プロフィール)
株式会社 笠盛
代表取締役会長 笠原 康利
・群馬県桐生市出身
・1877年 帯の織物業として創業。
・1962年 刺繍業を始める
・2001年 インドネシアにPT.KASAMORIを設立(2005年撤退)
・2007年 「modamont」に出展し、VIP Products に選定
・2010年 「000(トリプル・オゥ)」ブランドがスタート
・2020年 桐生市新宿に「笠盛パーク」開設
【編集後記】
常に柔和な表情で、ユーモラスに語って下さる笠原会長の姿が印象に残っています。会社と従業員を愛し、お客様へのサービスを徹底する。まさに愛のかたまりのような方でした。同時に「失敗は成功のもと」という強い志を持たれ、常に目標を持って生きる方。私自身も「失敗を恐れなくていい」と諭されている気持ちになりました。今後も笠原会長と共に躍進を続ける笠盛に注目したいと思います。(ライター:藤野 悦子)